2009年04月14日

立石赤線、「何もかも東京大空襲から始まった」

赤線地帯/猫.JPG 立石の赤線地帯に関して、ずっと疑問に思っていることが2つあります。

『赤線跡を歩く』(木村聡著、ちくま文庫、950円)によれば、立石の赤線は、「戦時中の昭和二十年六月に、駅の北口にできた」そうです。そして、占領期の一時期は、そこが米兵用の慰安所(RAA特殊慰安施設協会=Recreation and Amusement Association)になっていたといいます。
 実は、巷には「戦前にも、立石に公娼宿があった」という噂もあるのですが、その真偽はいかがか? というのが、2つの疑問のうちのひとつ。

 また、立石には、戦中「産業戦士慰安所」がありました。産業戦士慰安所とは、「軍需工場にかり集められた若い徴用工の性欲のために、軍部の命で、警視庁が設けた売春施設」です。
 いったい、立石産業戦士慰安所はどこにあったのか? 赤線と同じ場所にあったのか? 
 これが、2つ目の疑問です。




 2つの問いに答えてくれる資料には、いまだ出会えていないのですが、この度、貴重な証言を得ました。証言者は、立石中央通り商店街お好み焼き「おきく」のおかあさん(78歳)。私が、子どもの頃からお世話になっている方です。

赤線地帯1.JPG 昭和6年生まれのおきくさんは、亀戸生まれ。昭和16年に父親が亡くなったのをきっかけに、立石に越し、母親と姉弟とともに、今のお店の場所に住み始めました。おきくさんは、戦後、区役所に勤務しますが、一方で、友人が営む駅前闇市(現仲見世商店街)の飲食店を手伝います。
 実は、おきくさん、三味線の達人で、お客さんからのウケが大変良かった。そこで、駅前の一角で自らの店を開店することに。
「おきく」は、三味線と、出身地である亀戸方面から入手する粋なつまみが評判を生み、大繁盛。「仲見世には共同便所しかなくて困っていた」ところ、お客さんから、「住まいを改造して、料亭風にしたら」と勧められて、現在の場所に料理屋を開きました。
 おねえさんが4、5人いて、華やかな料理屋だった頃の「おきく」のことを、私もおぼろげながら憶えています。三味の音が夜な夜な響き、それは繁盛していました。「おきく」は、その後、昭和40年代にお好み焼き屋に改装し、今に至ります。

葛飾まちづくり劇場.jpg


 ついついおきくさんの紹介が長くなりましたが、つまり、おきくさんは立石の生き字引。
 さて、以下が、そんなおきくさんが話してくれたことです。
 
赤線地帯2.JPG「うん、そう。戦後は、駅の向こう側一帯が赤線だったの。赤線たって、バラックに毛の生えたようなもんよ。3月10日の東京大空襲亀戸が焼けて、あの辺で商売してた女の人たちが、ずい分移って来た。
 戦争中は、線路の向こうもこっちも更地だったの。空襲で大火事になったら大変ってんで、家屋疎開で、建物が壊されたからね。子どもたちも、学童疎開新潟の寺泊に送られたのよ。うちの弟も、梅田小学校から寺泊に行ったわ。
 更地に、屋台やバラックが建ち始めたのは、終戦後。仲見世は、よしず張りでさ。みんな「リンゴの唄」かなんか唄いながらね、一生懸命だった。
 赤線は、駅のホームからも見えたわよ。女の人たちが表に立って、お客を呼び込んでたんだから。水道道までずーっとね、そんな感じだった。
 進駐軍も来てたよ。クロいのも、シロいのも、来てたねぇ。
 パンパン屋のお姉さんが、私にこぼしたっけ。
進駐軍は遊び慣れてないし、日本人と違うから、やんなっちゃう」って。

柳田由紀子の本/紫


立石遊郭 看板建築風 女の人たちは、その後、飲み屋を始めたり、田舎に帰ったりしたわね。今、立石に残っている人はいない、私が知る限りはね。とにかく、終戦後は、線路のこっちは飲み屋、あっちはパンパン。線路のこっちは、マジメでしたよ。ただ、事情をよくわからないお客がたまに来て、うちに、その種のサービスを期待することもあった。そういう時は、「冗談じゃありませんよ。こっち側は違いますよ」って、説明したもんよ。
 
 戦前に、立石赤線があったかって? ない。絶対にない。そう言い切れる。すべて3月10日の大空襲から始まったこと。だって、昔は、吉原や亀戸にちゃんと遊郭があったんだから、立石なんて、こんな田舎まで来るお客はいないもの。 
 戦争中の「産業戦士慰安所」? それは、知らないなあ。
 もっとも、今の青戸団地のところに「大日本機械」っていう軍需工場があったから、あっても不思議じゃないけど。ただ、私は知らないわ。 
 まぁ、すべて昔話。終戦からこっち、しばらくの間、立石は、本当に賑やかだったからねぇ。今はすっかり寂れちゃったけど。
 えっ? 立石が今、ブームだって? 知らないねぇ。うちは、この頃、夕方4時には店を閉めちゃうからさ、世間のことはよくわからなくなっちゃった(笑)。」

posted by 柳田由紀子 at 14:59| 東京 ☔| Comment(2) | TrackBack(1) | 立石の赤線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私は昭和12年ころから立石に住んでいました。
いわゆる、赤線地帯は、立石駅の北側隣接地にあり、立石大通りから行けば、立石駅踏切を渡ってすぐに左折した当たり一帯がそうです。
高校生時代に好奇心から良く通り抜けました。敗戦後はアメリカ兵がジープに乗って大挙して遊びに来ていましたね。
Posted by ボーン・ルーザー at 2013年01月30日 17:53
ボーン・ルーザー さんへ:コメントをありがとうございます! 大変興味深く拝読いたしました。戦中の「産業戦士慰安所」に関して、質問がございます。よろしければ、以下のページもご高覧いただけないでしょうか? http://keiseitateishi.seesaa.net/article/304738053.html
なお、ボーン・ルーザーさんは、いつ頃まで立石に住んでいらしたのでしょうか? よろしければご教示くださいませ。
Posted by 柳田由紀子 at 2013年01月31日 15:05
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