『赤線跡を歩く』(木村聡著、ちくま文庫、950円)によれば、立石の赤線は、「戦時中の昭和二十年六月に、駅の北口にできた」そうです。そして、占領期の一時期は、そこが米兵用の慰安所(RAA=特殊慰安施設協会=Recreation and Amusement Association)になっていたといいます。
実は、巷には「戦前にも、立石に公娼宿があった」という噂もあるのですが(「『呑んべ横丁』は赤線だったのか?」(2008年9月9日参照))、その真偽はいかがか? というのが、2つの疑問のうちのひとつ。
また、立石には、戦中「産業戦士慰安所」がありました。産業戦士慰安所とは、「軍需工場にかり集められた若い徴用工の性欲のために、軍部の命で、警視庁が設けた売春施設」です(「戦中と米軍占領期、立石には『慰安所』があった」(2008年9月5日参照))。
いったい、立石の産業戦士慰安所はどこにあったのか? 赤線と同じ場所にあったのか?
これが、2つ目の疑問です。
昭和6年生まれのおきくさんは、亀戸生まれ。昭和16年に父親が亡くなったのをきっかけに、立石に越し、母親と姉弟とともに、今のお店の場所に住み始めました。おきくさんは、戦後、区役所に勤務しますが、一方で、友人が営む駅前闇市(現仲見世商店街)の飲食店を手伝います。
実は、おきくさん、三味線の達人で、お客さんからのウケが大変良かった。そこで、駅前の一角で自らの店を開店することに。
「おきく」は、三味線と、出身地である亀戸方面から入手する粋なつまみが評判を生み、大繁盛。「仲見世には共同便所しかなくて困っていた」ところ、お客さんから、「住まいを改造して、料亭風にしたら」と勧められて、現在の場所に料理屋を開きました。
おねえさんが4、5人いて、華やかな料理屋だった頃の「おきく」のことを、私もおぼろげながら憶えています。三味の音が夜な夜な響き、それは繁盛していました。「おきく」は、その後、昭和40年代にお好み焼き屋に改装し、今に至ります。
ついついおきくさんの紹介が長くなりましたが、つまり、おきくさんは立石の生き字引。
さて、以下が、そんなおきくさんが話してくれたことです。
赤線たって、バラックに毛の生えたようなもんよ。3月10日の東京大空襲で亀戸が焼けて、あの辺で商売してた女の人たちが、ずい分移って来た。
戦争中は、線路の向こうもこっちも更地だったの。空襲で大火事になったら大変ってんで、家屋疎開で、建物が壊されたからね。子どもたちも、学童疎開で新潟の寺泊に送られたのよ。うちの弟も、梅田小学校から寺泊に行ったわ。
更地に、屋台やバラックが建ち始めたのは、終戦後。仲見世は、よしず張りでさ。みんな「リンゴの唄」かなんか唄いながらね、一生懸命だった。
赤線は、駅のホームからも見えたわよ。女の人たちが表に立って、お客を呼び込んでたんだから。水道道までずーっとね、そんな感じだった。
進駐軍も来てたよ。クロいのも、シロいのも、来てたねぇ。
パンパン屋のお姉さんが、私にこぼしたっけ。
「進駐軍は遊び慣れてないし、日本人と違うから、やんなっちゃう」って。
とにかく、終戦後は、線路のこっちは飲み屋、あっちはパンパン。線路のこっちは、マジメでしたよ。ただ、よく事情のわからないお客がたまに来て、うちに、その種のサービスを期待することもあった。
そういう時は、
「冗談じゃありませんよ。こっち側は違いますよ」
って、説明したもんよ。
戦前に、立石に赤線があったかって? ない。絶対にない。そう言い切れる。すべて3月10日の大空襲から始まったこと。だって、昔は、吉原や亀戸にちゃんと遊郭があったんだから、立石なんて、こんな田舎まで来るお客はいないもの。
戦争中の「産業戦士慰安所」? それは、知らないなあ。少なくとも北口にはなかったねぇ。
もっとも、今の青戸団地のところに「大日本機械」っていう軍需工場があったし、東立石にも「愛国工業」っていうやっぱり軍需工場があったから、あっても不思議じゃないけど。ただ、私は知らないわ。
まぁ、すべて昔話。終戦からこっち、しばらくの間、立石は、本当に賑やかだったからねぇ。今はすっかり寂れちゃったけど。
えっ? 立石が今、ブームだって? 知らないねぇ。うちは、この頃、夕方4時には店を閉めちゃうからさ、世間のことはよくわからなくなっちゃった(笑)。」
→「戦中と米軍占領期、立石には『慰安所』があった」(2008年9月5日参照)
→「『呑んべ横丁』は赤線だったのか?」(2008年9月9日参照)
→「立石北口、『赤線跡を歩く』」(2009年4月10日参照)
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