2012年12月01日

戦中、北口にあった「産業戦士慰安所」

genan.jpg「ああ、あれはね、駅の北口。そう、今、鳥房があるでしょ、その前に交番があるじゃない、あの裏辺りにあったんですよ」

 確かな口調でそう語るのは、立石そば処「玄庵」のご主人、貝塚隆雄さんです。
 貝塚さんは昭和8年、立石南口駅前の「貝塚道具店」生まれ。戦中、駅前一帯の建物が取り壊され「強制疎開」が行われたため、一時親類のいる松戸に疎開しましたが、戦後再び立石に戻りました。その後も立石に住み続け、大学卒業後は立石の家具店オーナーを経て、1997年より東立石3丁目に「玄庵」をオープン。今では、他の街からも常連が通う名店に育て上げました。
(illustration/山崎まどか)





 私は、立石赤線地帯について調べているうちに、戦争中、この街に「産業戦士慰安所」があったという事実にたどり着きました。けれども、それがどこにあったのか、貝塚さんの話を聞くまでわからなかったのです。
 従軍慰安所に関しては、『従軍慰安婦』(吉見義明著/岩波新書)他、さまざま資料があるのですが、「産業戦士慰安所」、つまり「軍需工場にかり集められた若い徴用工の性欲のためにと、軍部の命で、警視庁が……工場地帯に新設させた慰安所」(『敗者の贈り物』ドウス昌代/講談社)の詳細を記した資料はなかなか見当たりません。
立石遊郭遠望.jpg

 貝塚さんが話を続けます。
「産業戦士慰安所」が開設されたのは、昭和18年の秋か、19年の春だったんじゃないかな。青戸にダイキ(注・大日本機械と思われる)、それから、立石8丁目にイマイズミっていう軍需工場があったからね、そこに徴用された人々が通ったんでしょう。うちは昔、呉服も扱っていたから、北口にもけっこうお得意さんがいたんです。それで、ちょっと詳しいの」

 貝塚さんの話や他の資料をつき合わせると、こんな推論が成り立ちます。
 立石北口は、
1)戦中=産業戦士慰安所
2)さらに東京大空襲(昭和20年3月10日)以降は、都内の売春地区を焼け出された女たちが産  業戦士慰安所に合流したか、自主営業(青線)、
3)戦後は、連合国占領軍(主に米軍)のための「特殊慰安施設協会」(RAA=Recreation and   Amusement Association)、
 へと変遷したことになります。

葛飾まちづくり劇場.jpg


京成電鉄立石駅北側入口.jpg 以上を「葛飾まちづくり劇場」主宰者の福原忠彦さん(立石、本田小学校出身の34歳。お肌スベスベの好青年です)に話したところ、福原さんが『花街・色街・艶な街 色街編』(上村敏彦著、街と暮らし社)という本を見せてくれました。

 この本によれば、東京大空襲で焼けだされた亀戸の私娼業者が、
京成立石駅前北口にあった長屋の建物を数棟買収してオープンしたのが昭和二O年六月六日……『産業戦士慰安所』の看板を出して八軒の業者と従業婦三O人での店開きであった。業者側は四一軒の営業許可をとっていたが、立退き料問題で手間取っているうちに終戦になってしまった」
 とあります。
 以上の表現だと、「昭和二O年六月六日が、立石産業戦士慰安所の始まり」と読めるので、貝塚さんのお話と食い違ってしまいます。私としては、その時代に現場にいた貝塚さんの証言に重きをおきたい。

 いずれにしても、そのうちに「東京都中央図書館・東京室」に行って史料を探したいと思っています。
□「玄庵」
住所:〒124-0013 東京都葛飾区東立石3-24-8 電話:03-3694-1241
営業:11:30〜15:00、 17:00〜21:00
定休日=火曜日他。詳細は下記HP
メニュー:せいろ¥800、十割せいろ¥950、粗挽きせいろ¥1,000他

上の写真は、立石北口遊郭の遠望。
下の写真は、昭和28年頃の立石駅北口。看板広告は、映画館、立石富士館の
『花の喧嘩状』(出演:長谷川一夫、山本富士子他、大映、1953年)。
写真2点ともに貝塚隆雄氏提供。
posted by 柳田由紀子 at 18:56| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 立石の赤線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/304738053

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。