2012年12月07日

昭和33年「売春防止法」施行直後の立石北口・赤線地帯

「あぁ、かわいそうだったなぁ」
 立石北口スナック「博多」のママは、半世紀以上昔のことをため息まじりに回想します。
まどか/博多ママ.jpg
illustration/山崎まどか


 博多のママ、鈴木タキコさん(昭和9年生まれ)が、ご主人と立石北口駅前に八百屋「鈴屋」を開店したのは昭和34年のこと。昭和34年は、売春を禁じる「売春防止法」が施行された翌年にあたる年です。
「私は宮城県から上京した新妻でね、何も知らなかったの。八百屋に、和服を“おひきずり”に着た女の人たちが次々と買いに来るのが不思議だった……。で、徐々に、その人たちが、元“パンパン屋”さんだってわかっていったんです。
 うちの裏は屋根屋さんだったんだけど、そこの奥さんは、いつも白くて大きなエプロンを掛けていた。実は奥さんは看護婦で、娼婦たちの性病検査を担当していたんです。北口には当時、専門の診療所があって定期検査をしていたんですよ」
 そう、立石北口の駅前は、戦中から「売春防止法」まで遊郭が並ぶ赤線地帯だったのです。
 しかし、「売春防止法」施行後も、「すぐに売春がなくなったわけじゃない」と、鈴木さんは振り返ります。
「飲食店に形を変えて、いろいろとね。“ちょんの間”っていうのかしら、狭い店内に衝立があって、その向こうに畳が敷かれてて……。でもまぁ、歳月が経つにつれて、そういう店も自然に消えていきましたけれどね」




 それでも、立石に残った、否、残らざるを得なかった「女たちもいた」と、鈴木さんが話を続けます。
昭和35年頃の地図.jpg「今の『デイサービス』(北口駅前)の隣に、『明月荘』っていう古いアパートがあったんですよ。よその街に行きようのない歳をとった娼婦や、病気を患った娼婦があそこに住んでいました。病気の人なんかもう歩けなくて部屋に籠ったきりで、『食べやすいように切ったリンゴ』の注文がよく入ったわ。あの人たちは、地元の人々からも白い目で見られていたから、『銭湯でも断られて困ってしまう』とこぼしていました……かわいそうだったなぁ。
 反対に、本妻になって立石を出て行った人もいます。誰だって好きであんな汚れた商売に入るわけじゃない。みんな実家が貧しくて、そういう境遇に墜ちた人たちでしょう。今はもう80歳を過ぎているでしょうけれど、苦労した分、幸せな後半生でありましたようにと、私はいつも願っているの」

赤線地帯/博多.JPG 昭和50年、鈴木さんは八百屋さんを営むかたわら、隣の店舗でスナック「博多」を始めました。そして、昭和61年からは「博多」で一本勝負。煮物が自慢の庶民的で暖かい店には、呑んべが足繁く通います。
「亡くなったおたくのおとうさんも、よく来てくれたわ。ほら、昔、北口に『処女航海』っていうキャバレーがあったじゃない。いつもあそこの帰りにネ、だいぶデキ上がって、ホステスさんに抱えられてさ(笑)」
 あった、あった、『処女航海』。素敵な店名だった……。ちなみに『処女航海』の後が、現在「デイサービス」です。もの凄い転身の仕方です。

 それにしても、おとうさ〜ん!
□スナック博多
〒124-0012 葛飾区立石4-26-1
電話:03-3695-1799
営業時間:18時〜。定休日:日曜

posted by 柳田由紀子 at 07:50| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 立石の赤線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
切ない話しですね。特に『食べ安い様に切ったリンゴ』を注文する女性の気持ちはどんなものだったでしょうか?合掌
Posted by 那須塩原の松じー at 2014年10月16日 22:46
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