2012年12月13日

川本三郎『郊外の文学誌 葛飾界隈』より

 本棚を整理していたら、2000年の「新潮」誌が出てきました。そこには、『郊外の文学誌 第10回 葛飾界隈』という川本三郎氏の連載が載っていました。
 以下、備忘録的要約を書きます。




川本三郎/葛飾界隈/1/4.jpg*京成押上線は、大正元年(1912)11月に押上〜伊予田(現江戸川)が開通、大正3年には、国府台以東へと順次延長。大正15年には押上〜成田間が全線開通。
(なお、『かつしか街歩きアーカイブス』(葛飾区郷土と天文の博物館/2009年)によれば、「京成立石駅大正元年11月3日開業(1912)。開業当時の四ツ木〜立石間は道路併用軌道で、現在のバス通り(奥戸街道)を走っていた。立石駅は西円寺北側の踏切辺りにあったが、荒川放水路の開削にともない向島〜立石間の経路が変更になり、四ツ木駅同様大正12年現在地に移転した。」

*都営地下鉄線の押上〜浅草間が完成し、京成電鉄との相互乗り入れが開始されたのは高度成長さなかの昭和35年師走。これで葛飾区と都心が一本に結ばれた。地下鉄と郊外私鉄の相互乗り入れは初。地下鉄が隅田川を越えたのも、この時が最初。

小説『浮雲』(林芙美子著)では、戦時中、フランス領インドネシアにタイピストとして赴任した幸田ゆき子が、森林技官の富岡に「東京生まれだ」というと、
「東京? 嘘つけ。東京生まれには、幸田君のようなのはないよ。あれば、葛飾、四ツ木あたりかな……」
 と、からかわれる。

*成瀬巳喜雄監督の映画『浮雲』(主演・高峰秀子、森雅之/昭和30年)にも、同様の台詞あり(私は大学の時、この映画を見て傷つきました。大好きな森雅之立石をバカにされてしまい……)。

永井荷風の短編『老人』(昭和25年)は、立石に隠遁した老人が主人公。この頃、荷風は千葉県市川市、京成八幡駅近くに居住していた。

*永井荷風『断腸亭日乗』によれば、荷風が立石を訪ねた日付は、昭和17年6月4日、23年6月24日他。

芝木好子が薄幸の女性画家を描いた小説に『葛飾の女』(昭和40年)。

中川に足繁く通った作家に幸田露伴

半村良『葛飾物語』(96年)は、戦前の本田原町(現東立石4丁目)の三軒長屋が舞台の小説。

*青木正美の回想記『下町の古本屋』(94年)には、生徒数が多かったため、小学校は午前組と午後組に分かれる「二部授業」とある。

*立石と四ツ木の中間にある「渋江公園」には、「セルロイド工業発祥之地」の碑がある。それによれば、大正3年に千種稔が、本田村川端にセルロイド工場を作ったのが「立石、四ツ木=玩具の街」の始まり。

*昭和35 年の大ヒット商品、「ダッコちゃん」は、青戸の玩具メーカー「タカラ」が製作。

*同年の日活青春映画『ガラスの少女』(主演・吉永小百合)では、吉永の恋人役、浜田光夫は四ツ木の玩具工場で働く若者。

*昭和12年葛飾生まれのつげ義春は、戦後、少年期を立石で過ごした。本田小学校卒業。仕事は、闇市の玩具売り、中華そば屋の出前持ち、メッキ工場工員など。

*立石発展の契機は2度。関東大震災、東京大空襲。2度とも大きな被害を受けなかったので、本所、深川を焼け出された人々が移住した。

 
最後に、川本氏の考察で「同感」と思った2点をーー。

「『男はつらいよ』の世界の原型は立石あたりの路地にあるのかもしれない。」

「戦時中空襲の被害のもっとも大きかった旧下町の人々が移り住んだ例も多く、気質的にも下町らしさを形成していったのであろう。」


柳田由紀子の本/紫

posted by 柳田由紀子 at 16:55| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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