2012年12月13日

「おきく」逝く

 2011年、冬、戦争直後の闇市時代から立石で小料理屋を営んできた駅前の「おきく」さんが亡くなりました。

きくばば2.jpg


 おきくさんは、私の育ての親ともいえる人です。うちは、おきくの斜め前の肉屋でした。高度成長期の肉屋はとても忙しかった。そこで、私はお七夜からおきくに預けられました。肉屋が忙しい朝から夕方はおきく、小料理屋が立て込む夕方から夜は家に帰るというのが、お七夜から小学校を卒業するまでの私の暮らしでした。
 私は、おきくさんのことを「きくババ」と呼んでいました。アメリカにいたため、きくババのお葬式には間に合いませんでした。亡くなった翌月、おきくを訪ねると、ひっそりとした店のお座敷に、きくババのお骨と遺影が飾ってありました。

  春帰国 信じたくない 君の遺影

 おきくは今、店を閉じています。つらいのでなるべく前を通らないようにしていますが、どうしても時折足を向けてしまう。シャッターが下りたままのおきく……。あの戸を、私はこれまでに何度開けたことだろう。きくババは、「あら、ゆきや〜」と、幾度迎えてくれたことだろう。

 先日、夢を見ました。きくババはなぜかどこかの田舎にいて、私が訪ねるのです。
「きくババ、もう立石には戻って来ないの?」
 と訊くと、きくババはやさしく笑って、
「うん、戻らないよ」

 きくババ、逢いたいよ……。

きくばば2 2.jpg
昭和30年代のおきく、店内。

きくばば1.jpg
若き日のおきくさん。終戦直後か。

昭和39年立石/柱5.jpg
奥に仲見世商店街がかすかに見える。右側がおきく。赤ん坊の私。

昭和39年立石/柱2.jpg
おきくの前は商人宿(現・舟和)だった。粋な黒塀。

昭和38年立石/せとものや.jpg
宿の隣がうちの肉屋、そして「セントラル」というGパン屋さん、瀬戸物屋さんの「栄屋」。
写真は、瀬戸物屋のおばちゃんと私。瀬戸物屋さんは、戦後朝鮮半島から引き上げて来たという。

昭和39年立石/柱3.jpg
右奥が瀬戸物屋さん。品物の並べ方にいまだ戦後感が漂う。




posted by 柳田由紀子 at 17:57| 東京 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
切ないお話しですね。誰にも時間は平等に過ぎて行きます。子供達は成長しやがて手元を離れて行き、我々も少しづつ老いて行きます。10代も一度きり、20代も一度きり、30代も、40代も、50代も。柳田先生もおきくさんの別れめを見とれたら心がもう少し楽になられたのでは。又、余計な書き込み御免なさいね。
Posted by 那須塩原市の松じー at 2014年10月03日 15:22
松じーさま:
 まず、先生はなしでお願いします(ぺこり)。
 おきくさん、実はこの春、姪御さんが店を再開させました。店名やメニューは変わりましたが(ありゃ、店名、憶えてないや)、お店のつくりはほぼそのまま。だから、お店の前を歩く私の足取りも軽くなりました。

PS:温泉のコメントもありがとうございました。私は温泉大好きなんです。アメリカでも堪能しております。今月は取材でヨーロッパに行くので、あちらでも取材の合間に入浴予定を入れまくりました(笑)。
Posted by 柳田由紀子 at 2014年10月04日 04:19
柳田様、それは良かったですね。おきくさんの姪御さんが立石に戻って来なすったなんて、素敵な事ですね。食の町だけでは無くてやはり立石は人を引きつけるは魅力一杯の元気な町なんですね。
Posted by 嬉しい那須塩原市の松じー at 2014年10月04日 08:14
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/306928775

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。