2013年06月26日

立石も登場、小林亜星の「赤線エッセイ」集、『あざみ白書』

 過日、作曲家の小林亜星さんをインタビューしました。取材が終わると、
「これ、あげるよ」
 亜星さんが、一冊の本をぽんと差し出しました。
『あざみ白書』(サンケイ出版、1980年初版、現在絶版)。
「オレ、この本の校正、女房と一緒にやったんだよね。あきれた男(笑)」

あざみ白書.jpg


『あざみ白書』は、昭和30年頃の全国の赤線について書いた自伝小説的エッセイ集です。ご本人があとがきで、「資料は正確に、オチは荒唐無稽にと心がけた」と記している通り、時代考証としても大変貴重な書籍と感じました。資料提供者のひとりは吉行淳之介。

立石遊郭遠望.jpg 東京だけでも17カ所、全国的に無数にあった赤線に、若かった亜星さんは、まさに“精力的”に通ったようです。そう、ちゃんと立石にも来ています。
「夏子」と題された一編から引用してみましょう。時は昭和31年(1956年)。

「都電で、浅草から押上へ出る。さらに京成電車で四つ目、京成立石で下車。」

 そうか、あの頃、都会からは都電経由で立石に来る人がいたんですね。

「ここは亀戸から流れた赤線で、当時、業者五十三軒、女性百三十人を擁していた。入口には『立石カフェー街』と書かれた、ベニア板を貼り合わせた様な柱が立って居り、門構え、庭付きの、一見、山の手の新興アパート風か、ウエスタン酒場風の店が多かった。」
(上写真/その頃の立石北口駅前。提供/貝塚隆雄氏)

 これは、立石北口駅前西地区のことを指します。今だと、「立石駅通り商店街北口。唐揚げで知られる『鳥房』の前にある交番裏の一帯」。業者53軒とはかなり大規模です。




「石の門構えの“つかさ”という店に入る。」

スナックつかさ.JPG 驚いたことに、今でも「つかさ」という店、残っているんですよ。もちろん赤線ではなく、スナックですけれど。そして、この頃は、店を閉めていることが多いようですけれど。

 立石の赤線は、戦中にできた産業戦士慰安所(「軍需工場にかり集められた若い徴用工の性欲のためにと、軍部の命で、警視庁が……工場地帯に新設させた慰安所」『敗者の贈り物』ドウス昌代/講談社)に由来します。
 その後、戦後の連合国占領軍(主に米軍)のための「特殊慰安施設協会」RAA=Recreation and Amusement Association)を経て、売春防止法が施行される昭和33年まで赤線地帯となりました。
『あざみ白書』によれば、戦前は8カ所だった「廓」が、「戦後十七カ所にも増えたのは、この様な、徴用工のための軍需施設が原因だった」。

あざみ白書/画1.jpg 亜星さんと「つかさの夏子」のお話は、本書を読んでいただくとしてーー。私がいちばん好きなオチは、「サリー」の章。
 かつて熱海の遊郭でかかわった時、「死んだ夫が忘れられない」と語った娼婦に、数10年ぶりにひょっこり、とある街で再会した亜星さんが、
「パルピンのゆうさんの事、忘れない?」
 と小声で尋ねると、彼女はこう答えました。
「忘れるもんですか、今でも墓石に腰使いたいほどだわよ」


画/滝田ゆう(『あざみ白書』より)


→このブログには、他にも呑んべ横丁立石の赤線
戦中の産業戦士慰安所
戦後の占領軍用慰安所に関する記事があります。


posted by 柳田由紀子 at 14:26| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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