2013年07月03日

半村良の『葛飾物語』と『無邪気な季節』に見る、立石の「敗戦直後」

「半村良の『葛飾物語』と『無邪気な季節』に見る、立石の『戦争』」に続く「敗戦直後」編です。




「焼け残ったせいか、立石の町にはやけに人が多くなった。」(『葛飾物語』)

 敗戦後、立石は一種の活況を呈します。
「焼け残ったせいか、立石の町にはやけに人が多くなった。それも知らねえ顔ばかり。その人の流れも昔は小岩から向島へが、こんどは西から東へだ。住まいと食い物につれて人の動きも変わった。」(『葛飾物語』
 のんびりした農村地帯だった立石に、大規模に人口が増加したのが1923年(大正12年)の関東大震災後。戦争は立石に、2度目の「民族の大移動」をもたらしました。
 大移動したのは日本人だけではありません。産業戦士慰安所(軍需工場の徴用兵用の公的売春所)が、占領軍専用の「特殊慰安施設協会」(RAA=Recreation and Amusement Association)」になったため、進駐軍の兵士(主にアメリカ人)まで立石に押し掛けたのです。『無邪気な季節』には、このことが詳しく書かれていますが、詳細は「【現況報告】 写真で辿る立石北口、旧赤線地帯(小史付き)」を参照ください。
 そんな立石半村良は、「戦争は変化を加速させた。人は疲れ男は減り、町は闇市の賑わいと外国兵の姿ばかり」(『葛飾物語』)と表現しています。

  

 戦中は、東京にしては食糧が出回っていた立石にも、敗戦とともに食糧難が襲います。「配給もまばらだからゆうべは奥戸新橋の袂で身元不明の凍死か餓死かこれも不明の行き倒れが出た」(『無邪気な季節』)し、『葛飾物語』の人々もサツマイモを食べる日々です。


「闇市には……得体の知れぬ……匂いが立ちのぼっている。」(『無邪気な季節』)

 そして、駅前には、闇市が立つようになりました。現在の立石仲見世商店街の原型です。長くなりますが、『無邪気な季節』から引用しましょう。  
「闇市にはいつものように得体の知れぬなんともつかぬ匂いが立ちのぼっている。夜の中に電灯とカンテラとランプと、灯芯までが灯りをつらねている。駅の出入口のそばではもう盛んな火の手が上がっている。焚火の連中である。……復員服か、ボロをまとった連中だが、傍にいって火に手をかざしても、金は請求しない」
 闇市には、飲食店もありました。 
「出入口のかたわらに新しく参加した店がある。煮込みを売っている。」
 煮込みとは、「進駐軍のシチューの残飯」。
 なお、焚き火用の「大きな材木はたいがい電車の線路の両側の柵代わりに使っている古枕木を引き抜いて」きたとか。
 線路の柵を盗むあたり、いかにも戦後の混乱期ですね。

  

 
 混乱といえば、「土地の不法占拠もあった」と、幾人もの古老から聞きました。戦中、駅前の一帯では、空襲の危険をかんがみて建物が取り壊され、「強制疎開(建物疎開とも呼ばれる)」が実施されましたし、その後も、ある時期まで、主に食糧難の見地から疎開組が立石に戻ることは禁じられていました。そのため、主の不在中に勝手に土地を奪い居座る者たちが出たのです。
 また、敗戦国として連合国の占領下にあった日本ですから(〜1952年4月28日)、進駐軍には手も足も出せませんでした。それに、中国や朝鮮半島の国々も戦勝国になりましたから、彼らにも警察は弱腰の対応でした。
「闇商売でも第三国人(ママ)ならこわもてしている。……警察は相手が第三国人(ママ)だと出てこない。」(『無邪気な季節』)。

 一方、戦争というお得意を失った軍需工場や、そこで働いていた人々は、生き残りをかけてどんな仕事でもしました。「(バラックの)トタンに波をつける仕事」や、「鍋釜からはじまって、砲金製の喫煙パイプまで、それなりに工夫したもの」を「細々と」作ったし、「軍需工場だったところが考案した原始的な家電製品」、「ジェラルミンを使った電気パン焼き器」といった変わり種もありました(『葛飾物語』)。
 そういうわけで、終戦後の立石では、モダンな山の手方面よりいち早く、電気パン焼き器が普及するという珍現象が起きていたのです。

関連記事→


  
posted by 柳田由紀子 at 16:37| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/368202787

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。