2013年07月07日

「半村良の『葛飾物語』と『無邪気な季節』に見る、立石の「キャサリン台風」

半村良『葛飾物語』『無邪気な季節』に見る立石」の「戦争編」「敗戦直後」に続いて、「キャサリン台風編」です。




 敗戦から2年経った1947年9月、復興途上の日本を襲ったのが「キャサリン台風」でした。キャサリン台風は、関東、東北地方を中心に、死者1,000名強、行方不明者800名強、浸水380,000棟強−−総計罹災者40万人以上もの被害をもたらしました。

キャサリン台風/図書センター.jpg
葛飾区の水害状況。『写真・絵画集成 日本災害史 3気象/日本図書センター』より

 9月16日、関東に到達した台風は、利根川堤防を決壊。台風が過ぎ去った後も、各地の川で堤防がドミノ倒しのように崩れていきました。そして、とうとう立石にも、街の東を流れる中川が決壊するとの情報が入ります。
「『予定』では二十日頃江戸川と葛飾区が水没するのだそうである。立石町の附近は大体午すぎから浸水がはじまることになっている。」(『葛飾物語』
 そうした状況下、立石の人々は水没対策に取りかかります。しかし、それは少し妙なものでした。『無邪気季節』によれば、「台風のあとの好天気が続く中で浸水の手当をしているのは間の抜けた空々しい感じ」だったからです。

キャサリン台風GHQ2.jpg キャサリン台風GHQ3.jpg

 そうはいっても、水の勢いは止まりません。20日夕方、遂に立石水没。人々は、建物の2階や屋根に避難します。
 水の増量が止まったのは翌々日。「二米以上になったところでぴたりと静止」(『無邪気な季節』)しましたが、水は依然として居座っています。それ故、食糧調達など外出を余儀なくされた人々は、ボートで行き来を始めました。
 『葛飾物語』はその様子を、 
「大通りは活発な船便の往来で賑わっていた。門や雨戸で作った筏、ボート、木だらいを三つ四つくくりつけた舟、それらを蹴散らすように占領軍の上陸用舟艇、浄水濾過機をつけた鉄舟が唸りをあげて走りすぎると、そのあおりで筏はあやうくてんぷくしそうになり、左右の商店の硝子戸は大波をたたきつけられる。」
 と書いています。
 占領下の日本(〜1952年4月28日)では、やはり進駐軍の力がとてつもなく強かったのですね。そもそも、キャサリン台風という、今では聞き慣れない台風名自体が、アメリカ式につけられたものです。
キャサリン台風GHQ1.jpg
上写真3点/撮影GHQ copyrights/National Archives and Records Administration


 しかし、こんな未曾有の水害にあっても、立石の人々は元気、というか不謹慎でした♪♪♪。以下、『無邪気な季節』より。
「『金ちゃん』の家ではひさしから屋根へと彼も上ってきている。金ちゃんたちは連日麻雀をやっている。」
 こんな立石が、私は好きです♪♪♪
『無邪気な季節』の「私」は、「金ちゃん」に言います。
「どう考えても被災者が連日連夜麻雀をやっているのは不健康な感じだぜ。」
 が、そう言った後で、「毎日松の木に蝉のようにとまって、月夜に用を足す姿が健康な被災者の姿かどうか」と、自嘲気味に自問することも忘れません。立石の人間は、なかなかに都会人なのです。

 

 その後、ようやく水が引き出すと、「二日かかって道路が見えはじめ」(『無邪気な季節』)ました。が、「路地にも横丁にも大通りにも、水のあふれた道には人々の排泄物が浮かび漂って」いたし、それ以降何年もの間、「家の柱や壁にそのときの浸水位置を示す汚れた線がくっきりと残った」(『葛飾物語』)そうです。

 日本政府は、キャサリン台風を機に治水事業に本腰を入れました。それでも、昭和38年生まれの私の記憶には、どぶ川が流れる立石の風景と匂いが鮮明に残っています。そのどぶ川も、いつの頃からか暗渠に変わり、今、立石にどぶ川はありません。

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posted by 柳田由紀子 at 02:29| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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