2013年06月27日

【現況報告】 写真で辿る立石北口、旧赤線地帯(小史付き) 

 立石出身の古書業者、石尾光之祐氏の『無邪気な季節』(私家版30部、昭和63年発行)は、自伝的色合いの濃厚な小説です。時代背景は、日中戦争から第二次世界大戦を経て、敗戦直後の混乱期。
 今回は、その『無邪気な季節』を中心に、立石北口西側地区、元赤線地帯の歴史を辿るとともに、現在の写真を掲載します。(*青文字は『無邪気な季節』からの抜粋。)

立石遊郭 看板建築風
旧赤線地帯の家−1。やや看板建築風の建物。

【昭和10年代、日中戦争の頃】
 当時の立石の全体像はーー。
「東京・葛飾の立石町は京成電車の立石駅を中心にして、百米ぐらいの円周にすっぽり入るような小さな町である。」

 そんな立石の北口に、新興住宅地が作られます。
「立石町を通る京成電車の『京成立石』駅のホームの長さは四十米もあったか、その長さの分だけ、北側の家並みが五、六十米も北に拡がって斜めに水道路とぶつかった一画が、『立石新地』だった。家数は40軒かそこいら」

 この住宅地には、飲食店もありました。
「駅を囲んだように四軒のミルクホールがある。」

 飲食店にも、戦争が影を落とし始めます。
「ミルクホール“春”はまもなく店を閉めるといっている。女ひとりで仕入が思うようにいかないそうである。芋あんの菓子まがいのケーキ、苦いだけの大豆煎りの珈琲……大豆煎りのそれすらむづかしくなっている。」

立石遊郭 コリント風
旧赤線地帯の家−2。ギリシャ建築を狙ったのでしょうか。

【昭和19年、20年、第二次世界大戦中】
 新興住宅地は、ある日、なんと軍需工場の徴用兵用の産業戦士慰安所(公的な売春地区)に指定されます。
「敗戦間際にこの一角が軍の慰安所になったと云う。」

 どうやら、住宅は公的機関から接収されて、住民も疎開させられたようです。おそらく、4軒のミルクホールも例外ではなかったでしょう。
「(慰安所は)しもたやを店に改造している。もともとしもたやだから一軒一軒はだいたい似たような間数だとすぐわかる。」
「金貸しの家……この家だけが……一軒残っている。戦中接収されなかったのは何故なのか。」


立石遊郭 おかしな家
旧赤線地帯の家ー3。なんて細長い2階なんだ。

【昭和20年、21年、敗戦直後】
 戦争が終わると、立石産業戦士慰安所は、占領軍兵士専用のやはり慰安所(「特殊慰安施設協会」(RAA=Recreation and Amusement Association)になります。国から指定を受けたのです。日本政府は全国的に占領軍兵士用の慰安所を作りましたが、それは「日本の婦女子の純潔を守るため」でした。
「敗戦の後は日本人(注2)と黒人兵専用(注1)の私娼街(注2)に変ったと云う。(妓は)百名程度だろう。踏切を渡るとこの一帯だけは電灯も明るく人の往き来が多かった。−−玄関がみんな店の入口である。」




(注1)「黒人兵専用」とありますが、これは誤りかもしれません。何人かの地元の人から、「黒人、白人ともに通っていた」という話を聞きました。
 たとえば、下の写真は「入口がふたつ」ある変な家。当時、この家(慰安所のひとつ)を運営していた老婦人に取材したところ、「アメリカ兵は人種差別がひどかった。黒人と白人が一緒の玄関じゃ困るってことで、こういう造りにしたわけよ」と語っていました。

売春街 黒白の家
旧赤線地帯の家ー4。

 いずれにしても、占領軍はやはり物凄く強い立場にいました。進駐軍の不始末に、日本の警察は手も足も出せませんでした。
「『新地』で心中未遂事件が発生した。事件には違いないが警察は介入していない。例の『大統領』みたいな名の黒人兵が或る夜泥酔して彼女の店にやって来た。彼は彼女を抱きしめると、携帯して来た拳銃を振りまわし、『一緒に死んでほしい』旨を米語で叫んだ。」

立石遊郭 アポート風
旧赤線地帯の家ー5。今はアパートのようです。

【昭和21年から昭和33年、売春防止法施行まで】
 しかし、翌年、主に性病の蔓延を理由にRAAの慰安所は廃止。占領軍の兵士が立ち入りできない「オフリミット」に指定されました。立石の慰安所も同様の措置を受けたため、以降は日本人相手の私娼地区(赤線)となり、昭和33年、売春防止法施行(公娼廃止の覚書は昭和21年1月)までその状態が続きます。
 上記(注2)の「日本人」「私娼街」の表現は、この時期とRAA時代が、著者の中で混乱しているのではと思われます。

 また、売春防止法施行後も、飲食店の形態を取りながら密かに営業する業者や店が多かったといいます。
 とはいえ、いつの頃からか、それらの店も一般のスナックやバーに変わるか、あるいは廃業し、現在にいたっています。
posted by 柳田由紀子 at 20:11| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(1) | 立石の赤線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月07日

昭和33年「売春防止法」施行直後の立石北口・赤線地帯

「あぁ、かわいそうだったなぁ」
 立石北口スナック「博多」のママは、半世紀以上昔のことをため息まじりに回想します。
まどか/博多ママ.jpg
illustration/山崎まどか


 博多のママ、鈴木タキコさん(昭和9年生まれ)が、ご主人と立石北口駅前に八百屋「鈴屋」を開店したのは昭和34年のこと。昭和34年は、売春を禁じる「売春防止法」が施行された翌年にあたる年です。
「私は宮城県から上京した新妻でね、何も知らなかったの。八百屋に、和服を“おひきずり”に着た女の人たちが次々と買いに来るのが不思議だった……。で、徐々に、その人たちが、元“パンパン屋”さんだってわかっていったんです。
 うちの裏は屋根屋さんだったんだけど、そこの奥さんは、いつも白くて大きなエプロンを掛けていた。実は奥さんは看護婦で、娼婦たちの性病検査を担当していたんです。北口には当時、専門の診療所があって定期検査をしていたんですよ」
 そう、立石北口の駅前は、戦中から「売春防止法」まで遊郭が並ぶ赤線地帯だったのです。
 しかし、「売春防止法」施行後も、「すぐに売春がなくなったわけじゃない」と、鈴木さんは振り返ります。
「飲食店に形を変えて、いろいろとね。“ちょんの間”っていうのかしら、狭い店内に衝立があって、その向こうに畳が敷かれてて……。でもまぁ、歳月が経つにつれて、そういう店も自然に消えていきましたけれどね」




 それでも、立石に残った、否、残らざるを得なかった「女たちもいた」と、鈴木さんが話を続けます。
昭和35年頃の地図.jpg「今の『デイサービス』(北口駅前)の隣に、『明月荘』っていう古いアパートがあったんですよ。よその街に行きようのない歳をとった娼婦や、病気を患った娼婦があそこに住んでいました。病気の人なんかもう歩けなくて部屋に籠ったきりで、『食べやすいように切ったリンゴ』の注文がよく入ったわ。あの人たちは、地元の人々からも白い目で見られていたから、『銭湯でも断られて困ってしまう』とこぼしていました……かわいそうだったなぁ。
 反対に、本妻になって立石を出て行った人もいます。誰だって好きであんな汚れた商売に入るわけじゃない。みんな実家が貧しくて、そういう境遇に墜ちた人たちでしょう。今はもう80歳を過ぎているでしょうけれど、苦労した分、幸せな後半生でありましたようにと、私はいつも願っているの」

赤線地帯/博多.JPG 昭和50年、鈴木さんは八百屋さんを営むかたわら、隣の店舗でスナック「博多」を始めました。そして、昭和61年からは「博多」で一本勝負。煮物が自慢の庶民的で暖かい店には、呑んべが足繁く通います。
「亡くなったおたくのおとうさんも、よく来てくれたわ。ほら、昔、北口に『処女航海』っていうキャバレーがあったじゃない。いつもあそこの帰りにネ、だいぶデキ上がって、ホステスさんに抱えられてさ(笑)」
 あった、あった、『処女航海』。素敵な店名だった……。ちなみに『処女航海』の後が、現在「デイサービス」です。もの凄い転身の仕方です。

 それにしても、おとうさ〜ん!
□スナック博多
〒124-0012 葛飾区立石4-26-1
電話:03-3695-1799
営業時間:18時〜。定休日:日曜

posted by 柳田由紀子 at 07:50| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 立石の赤線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月01日

戦中、北口にあった「産業戦士慰安所」

genan.jpg「ああ、あれはね、駅の北口。そう、今、鳥房があるでしょ、その前に交番があるじゃない、あの裏辺りにあったんですよ」

 確かな口調でそう語るのは、立石そば処「玄庵」のご主人、貝塚隆雄さんです。
 貝塚さんは昭和8年、立石南口駅前の「貝塚道具店」生まれ。戦中、駅前一帯の建物が取り壊され「強制疎開」が行われたため、一時親類のいる松戸に疎開しましたが、戦後再び立石に戻りました。その後も立石に住み続け、大学卒業後は立石の家具店オーナーを経て、1997年より東立石3丁目に「玄庵」をオープン。今では、他の街からも常連が通う名店に育て上げました。
(illustration/山崎まどか)





 私は、立石赤線地帯について調べているうちに、戦争中、この街に「産業戦士慰安所」があったという事実にたどり着きました。けれども、それがどこにあったのか、貝塚さんの話を聞くまでわからなかったのです。
 従軍慰安所に関しては、『従軍慰安婦』(吉見義明著/岩波新書)他、さまざま資料があるのですが、「産業戦士慰安所」、つまり「軍需工場にかり集められた若い徴用工の性欲のためにと、軍部の命で、警視庁が……工場地帯に新設させた慰安所」(『敗者の贈り物』ドウス昌代/講談社)の詳細を記した資料はなかなか見当たりません。
立石遊郭遠望.jpg

 貝塚さんが話を続けます。
「産業戦士慰安所」が開設されたのは、昭和18年の秋か、19年の春だったんじゃないかな。青戸にダイキ(注・大日本機械と思われる)、それから、立石8丁目にイマイズミっていう軍需工場があったからね、そこに徴用された人々が通ったんでしょう。うちは昔、呉服も扱っていたから、北口にもけっこうお得意さんがいたんです。それで、ちょっと詳しいの」

 貝塚さんの話や他の資料をつき合わせると、こんな推論が成り立ちます。
 立石北口は、
1)戦中=産業戦士慰安所
2)さらに東京大空襲(昭和20年3月10日)以降は、都内の売春地区を焼け出された女たちが産  業戦士慰安所に合流したか、自主営業(青線)、
3)戦後は、連合国占領軍(主に米軍)のための「特殊慰安施設協会」(RAA=Recreation and   Amusement Association)、
 へと変遷したことになります。

葛飾まちづくり劇場.jpg


京成電鉄立石駅北側入口.jpg 以上を「葛飾まちづくり劇場」主宰者の福原忠彦さん(立石、本田小学校出身の34歳。お肌スベスベの好青年です)に話したところ、福原さんが『花街・色街・艶な街 色街編』(上村敏彦著、街と暮らし社)という本を見せてくれました。

 この本によれば、東京大空襲で焼けだされた亀戸の私娼業者が、
京成立石駅前北口にあった長屋の建物を数棟買収してオープンしたのが昭和二O年六月六日……『産業戦士慰安所』の看板を出して八軒の業者と従業婦三O人での店開きであった。業者側は四一軒の営業許可をとっていたが、立退き料問題で手間取っているうちに終戦になってしまった」
 とあります。
 以上の表現だと、「昭和二O年六月六日が、立石産業戦士慰安所の始まり」と読めるので、貝塚さんのお話と食い違ってしまいます。私としては、その時代に現場にいた貝塚さんの証言に重きをおきたい。

 いずれにしても、そのうちに「東京都中央図書館・東京室」に行って史料を探したいと思っています。
□「玄庵」
住所:〒124-0013 東京都葛飾区東立石3-24-8 電話:03-3694-1241
営業:11:30〜15:00、 17:00〜21:00
定休日=火曜日他。詳細は下記HP
メニュー:せいろ¥800、十割せいろ¥950、粗挽きせいろ¥1,000他

上の写真は、立石北口遊郭の遠望。
下の写真は、昭和28年頃の立石駅北口。看板広告は、映画館、立石富士館の
『花の喧嘩状』(出演:長谷川一夫、山本富士子他、大映、1953年)。
写真2点ともに貝塚隆雄氏提供。
posted by 柳田由紀子 at 18:56| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 立石の赤線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月19日

立石北口、『赤線跡を歩く』

「公娼制度の廃止に伴い、戦後間もない昭和21年頃から形成された赤線地帯。(中略)戦後の都市空間を彩った建築物とわずかに残る街並みを記録した貴重な写真集。」
『赤線跡を歩くーー消えゆく夢の街を訪ねて』(木村聡著、ちくま文庫、950円)、裏表紙からの引用です。
 この本には、東京=16カ所、関東=21カ所、関西=6カ所の元赤線地帯が、写真入りで掲載されています。写真集とはいえ、文庫版なのでハンディで、リーゾナブルな価格なのがありがたい。


 その東京16カ所中のひとつとして紹介されているのが、立石北口。場所をもう少し詳しく記せば、「立石駅通り商店街北口。唐揚げで知られる『鳥房』の前にある交番裏の一帯」です。
 やはり、立石赤線はあったのですね。




『赤線跡を歩く』によれば、立石の赤線は、「亀戸で罹災した業者が移転してできたシマで、戦時中の昭和二十年六月に民家を改装して営業が開始された」とのこと。
赤線地帯1.JPG また、「終戦後の八月末には進駐軍向けの慰安施設(RAA)に指定され、まもなく黒人兵が出入りするようになった」とも記されています。
 立石RAA(特殊慰安施設協会、Recreation and Amusement Association)に関しては『国策慰安婦をめぐる占領下秘史――敗者の贈り物』(ドウス昌代著、講談社、絶版)にも書かれています。

 赤線跡地を訪ねると、くねくねとした細い道が続いていて、飲み屋や民家が並ぶちょっとした迷宮。当時の姿が偲ばれます。
 それにしても、こういう淫靡な空間って、東京では本当に少なくなったよなぁ。立石の赤線跡も、駅前再開発の対象になっていますから、このままいけば、数年以内には消えゆく運命にあります。




posted by 柳田由紀子 at 01:48| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 立石の赤線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『敗者の贈り物』、占領期、立石には米兵用の「慰安所」があった

dousumasayo.jpg 第二次大戦中、立石には「慰安所」がありました。少し長くなりますが、以下に、ドウス昌代さんの『国策慰安婦をめぐる占領下秘史ーー敗者の贈物』(講談社)を引用します。
「東京都接待業組合連合会というのは、戦時中新しく出来た慰安施設の業者の集まりであった。東京近郊の軍需工場にかり集められた若い徴用工の性欲のためにと、軍部の命で、警視庁が、立川、蒲田、亀有、立石、新小岩の工場地帯に、新設させた慰安所である。当局はこれを産業戦士慰安所と呼んだ」

 慰安所というのは、戦地だけでなく、国内にもあったんですね。日本軍はきめ細かいというか、なんというか。




 ところで、皆さんは「特殊慰安施設協会」RAA=Recreation and Amusement Association)をご存じでしょうか? これは、終戦直後に、「連合軍(占領軍、進駐軍)の兵士向けに作られた売春婦のいる慰安所」のことです。GI.jpg占領軍が積極的に要求したというより、国内の治安を守るため、日本の内務省が主体となって用意した施設です。そして、米軍は、“敗戦国からの親切な配慮”を遠慮せずに受け取った格好になります。

 その「特殊慰安施設協会」(RAA)が、占領期、意外なことに立石にあったのです。戦中に、日本人徴用工のために作った産業戦士慰安所を、戦後になって連合軍兵士ように代替、いわば横すべりさせたのです。進駐軍とか占領軍というと、銀座や丸の内、横浜や横須賀などの地名がすぐに浮かびますが、東京の東のはずれ、立石にまで、GIたちは押しかけて来ていたのですね。
『国策慰安婦をめぐる占領下秘史ーー敗者の贈物』には、「昭和21年10月警視庁調査」として、「立石に75名の慰安婦」がいたと記されています。

→このブログには、他にも呑んべ横丁立石の赤線
戦中の産業戦士慰安所
戦後の占領軍用慰安所に関する記事があります。


*上に掲載したGIの写真は、『図説 占領下の東京 Occupation Forces in Tokyo, 1945-52』(佐藤洋一著・河出書房新社)の表紙を撮影したもの。写真自体は、米国立公文書館分館所蔵。『図説 占領下の東京』は、米国立公文書館分館に残る占領期東京の写真を丹念に調査、編集した好著。写真や資料が豊富で、Occupied Japanに興味のある方には、おすすめの一冊です。




posted by 柳田由紀子 at 01:13| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 立石の赤線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「呑んべ横丁」は赤線だったのか?

 隠微な2階建ての軒が並んでいることから、「呑んべ横丁」が、かつての赤線(公認で売春が行われていた地域の俗称)、あるいは青線(非公認の売春区)だったと考える人が多いようです。確かに、呑んべ横丁は、昔、青線だった新宿のゴールデン街に似ています。また、呑んべ横丁は、売春防止法(昭和31年/売春廃止は昭和33年)以前に出来ていますから、赤線青線と考えても不思議ではありません。

呑んべ横丁4.jpg
illustration/山崎まどか

 しかし、結論からいうと、これは勘違い。呑んべ横丁が出来たのは昭和29年で、創設当時は「立石デパート」と呼ばれていました。現在の姿からは想像しにくいのですが、この横丁、以前は、用品屋や食堂が並ぶ健全な商店街でした。つまり、呑んべ横丁は、赤線でも青線でもなかったのです。

 では、巷に噂される立石の赤線慰安所はどこにあったのでしょうか?  
 区役所に問い合わせたところ、「葛飾区郷土と天文の博物館」(葛飾区白鳥3-25-1)を紹介されました。「郷土と天文」と「赤線青線」って、ちょっと違うんじゃないの? と首をかしげつつ連絡をとると、予想に反して、それなりの回答が返ってきました。博物館学芸員の方の話をまとめたのが以下です。
立石赤線があったという記録は、区史を含めた葛飾区の資料には残っていない。
* ただし、地元の古老から「赤線があった」という話は、幾度か聞いたことがある。
* 古老たちの話によれば、場所は、立石駅通り商店街北口「鳥房」の斜め前にある交番裏  一帯
*東京都中央図書館の東京室に、資料が残っているかもしれない。


呑んべ横丁/姫.JPG


立石駅北口交番の裏が風俗街だった」ということは、赤線遊郭跡を含めた日本の風俗全般を撮影散歩したブログ、「古今東西風俗散歩」にも記されています。
 同様のことは、筑摩書房から出版されている赤線跡を歩く」(鈴木聡著にも書かれています。

 ところで、赤線を扱った映画や小説は数々ありますが、私がもっとも好きなのが溝口健二監督の『赤線地帯』です。この映画は、売春防止法が施行された、まさにその年に公開されました。また、名匠、溝口の遺作でもあります。
 娼婦を演じるのが、若尾文子や京マチ子、木暮三千代他。女郎屋のおかみに沢村貞子。同じく旦那役が進藤英太郎。私は、進藤英太郎を「日本映画最大のエロおやじ」と思っているのですが、『赤線地帯』でも、たっぷりと艶のあるエロな演技を見せてくれます。
 しかし、この映画で誰よりも圧倒的なのは、大年増の娼婦を演じる三益愛子ではないでしょうか? 彼女が最後に唄う『満州娘』に、何度この映画を観ても、私の胸は大きく揺さぶられるのです。

posted by 柳田由紀子 at 00:19| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 立石の赤線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月14日

立石赤線、「何もかも東京大空襲から始まった」

赤線地帯/猫.JPG 立石の赤線地帯に関して、ずっと疑問に思っていることが2つあります。

『赤線跡を歩く』(木村聡著、ちくま文庫、950円)によれば、立石の赤線は、「戦時中の昭和二十年六月に、駅の北口にできた」そうです。そして、占領期の一時期は、そこが米兵用の慰安所(RAA特殊慰安施設協会=Recreation and Amusement Association)になっていたといいます。
 実は、巷には「戦前にも、立石に公娼宿があった」という噂もあるのですが、その真偽はいかがか? というのが、2つの疑問のうちのひとつ。

 また、立石には、戦中「産業戦士慰安所」がありました。産業戦士慰安所とは、「軍需工場にかり集められた若い徴用工の性欲のために、軍部の命で、警視庁が設けた売春施設」です。
 いったい、立石産業戦士慰安所はどこにあったのか? 赤線と同じ場所にあったのか? 
 これが、2つ目の疑問です。




 2つの問いに答えてくれる資料には、いまだ出会えていないのですが、この度、貴重な証言を得ました。証言者は、立石中央通り商店街お好み焼き「おきく」のおかあさん(78歳)。私が、子どもの頃からお世話になっている方です。

赤線地帯1.JPG 昭和6年生まれのおきくさんは、亀戸生まれ。昭和16年に父親が亡くなったのをきっかけに、立石に越し、母親と姉弟とともに、今のお店の場所に住み始めました。おきくさんは、戦後、区役所に勤務しますが、一方で、友人が営む駅前闇市(現仲見世商店街)の飲食店を手伝います。
 実は、おきくさん、三味線の達人で、お客さんからのウケが大変良かった。そこで、駅前の一角で自らの店を開店することに。
「おきく」は、三味線と、出身地である亀戸方面から入手する粋なつまみが評判を生み、大繁盛。「仲見世には共同便所しかなくて困っていた」ところ、お客さんから、「住まいを改造して、料亭風にしたら」と勧められて、現在の場所に料理屋を開きました。
 おねえさんが4、5人いて、華やかな料理屋だった頃の「おきく」のことを、私もおぼろげながら憶えています。三味の音が夜な夜な響き、それは繁盛していました。「おきく」は、その後、昭和40年代にお好み焼き屋に改装し、今に至ります。

葛飾まちづくり劇場.jpg


 ついついおきくさんの紹介が長くなりましたが、つまり、おきくさんは立石の生き字引。
 さて、以下が、そんなおきくさんが話してくれたことです。
 
赤線地帯2.JPG「うん、そう。戦後は、駅の向こう側一帯が赤線だったの。赤線たって、バラックに毛の生えたようなもんよ。3月10日の東京大空襲亀戸が焼けて、あの辺で商売してた女の人たちが、ずい分移って来た。
 戦争中は、線路の向こうもこっちも更地だったの。空襲で大火事になったら大変ってんで、家屋疎開で、建物が壊されたからね。子どもたちも、学童疎開新潟の寺泊に送られたのよ。うちの弟も、梅田小学校から寺泊に行ったわ。
 更地に、屋台やバラックが建ち始めたのは、終戦後。仲見世は、よしず張りでさ。みんな「リンゴの唄」かなんか唄いながらね、一生懸命だった。
 赤線は、駅のホームからも見えたわよ。女の人たちが表に立って、お客を呼び込んでたんだから。水道道までずーっとね、そんな感じだった。
 進駐軍も来てたよ。クロいのも、シロいのも、来てたねぇ。
 パンパン屋のお姉さんが、私にこぼしたっけ。
進駐軍は遊び慣れてないし、日本人と違うから、やんなっちゃう」って。

柳田由紀子の本/紫


立石遊郭 看板建築風 女の人たちは、その後、飲み屋を始めたり、田舎に帰ったりしたわね。今、立石に残っている人はいない、私が知る限りはね。とにかく、終戦後は、線路のこっちは飲み屋、あっちはパンパン。線路のこっちは、マジメでしたよ。ただ、事情をよくわからないお客がたまに来て、うちに、その種のサービスを期待することもあった。そういう時は、「冗談じゃありませんよ。こっち側は違いますよ」って、説明したもんよ。
 
 戦前に、立石赤線があったかって? ない。絶対にない。そう言い切れる。すべて3月10日の大空襲から始まったこと。だって、昔は、吉原や亀戸にちゃんと遊郭があったんだから、立石なんて、こんな田舎まで来るお客はいないもの。 
 戦争中の「産業戦士慰安所」? それは、知らないなあ。
 もっとも、今の青戸団地のところに「大日本機械」っていう軍需工場があったから、あっても不思議じゃないけど。ただ、私は知らないわ。 
 まぁ、すべて昔話。終戦からこっち、しばらくの間、立石は、本当に賑やかだったからねぇ。今はすっかり寂れちゃったけど。
 えっ? 立石が今、ブームだって? 知らないねぇ。うちは、この頃、夕方4時には店を閉めちゃうからさ、世間のことはよくわからなくなっちゃった(笑)。」

posted by 柳田由紀子 at 14:59| 東京 ☔| Comment(2) | TrackBack(1) | 立石の赤線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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