2013年08月06日

小沢昭一さんと立石

 小沢昭一さんの『ぼくの浅草案内』(ちくま文庫)を読んでいたら、こんな文章を発見しました。
「私には妙な収集癖があって“赤線通い”も都内をくまなく廻わり、吉原、新宿はもちろん、品川、武蔵新田、千住、洲崎、亀戸、玉の井、鳩の街、亀有、立石、新小岩、東京パレス、そして八王子、立川、調布まで足を伸ばしたが、とくに玉の井は、その中でもオキニイリであった。」


 小沢さん、立石には、コンドームの座談のためにいらしただけでなく(→「『昭和の世間噺――いろイロ』ーー小沢昭一が訪ねたコンドーム発祥の地、東立石」)、身体を張って現地取材もなさったのですね(笑)。
 元編集担当者として、今でも深くお慕い申し上げる所以でございます。





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2013年07月07日

「半村良の『葛飾物語』と『無邪気な季節』に見る、立石の「キャサリン台風」

半村良『葛飾物語』『無邪気な季節』に見る立石」の「戦争編」「敗戦直後」に続いて、「キャサリン台風編」です。




 敗戦から2年経った1947年9月、復興途上の日本を襲ったのが「キャサリン台風」でした。キャサリン台風は、関東、東北地方を中心に、死者1,000名強、行方不明者800名強、浸水380,000棟強−−総計罹災者40万人以上もの被害をもたらしました。

キャサリン台風/図書センター.jpg
葛飾区の水害状況。『写真・絵画集成 日本災害史 3気象/日本図書センター』より

 9月16日、関東に到達した台風は、利根川堤防を決壊。台風が過ぎ去った後も、各地の川で堤防がドミノ倒しのように崩れていきました。そして、とうとう立石にも、街の東を流れる中川が決壊するとの情報が入ります。
「『予定』では二十日頃江戸川と葛飾区が水没するのだそうである。立石町の附近は大体午すぎから浸水がはじまることになっている。」(『葛飾物語』
 そうした状況下、立石の人々は水没対策に取りかかります。しかし、それは少し妙なものでした。『無邪気季節』によれば、「台風のあとの好天気が続く中で浸水の手当をしているのは間の抜けた空々しい感じ」だったからです。

キャサリン台風GHQ2.jpg キャサリン台風GHQ3.jpg

 そうはいっても、水の勢いは止まりません。20日夕方、遂に立石水没。人々は、建物の2階や屋根に避難します。
 水の増量が止まったのは翌々日。「二米以上になったところでぴたりと静止」(『無邪気な季節』)しましたが、水は依然として居座っています。それ故、食糧調達など外出を余儀なくされた人々は、ボートで行き来を始めました。
 『葛飾物語』はその様子を、 
「大通りは活発な船便の往来で賑わっていた。門や雨戸で作った筏、ボート、木だらいを三つ四つくくりつけた舟、それらを蹴散らすように占領軍の上陸用舟艇、浄水濾過機をつけた鉄舟が唸りをあげて走りすぎると、そのあおりで筏はあやうくてんぷくしそうになり、左右の商店の硝子戸は大波をたたきつけられる。」
 と書いています。
 占領下の日本(〜1952年4月28日)では、やはり進駐軍の力がとてつもなく強かったのですね。そもそも、キャサリン台風という、今では聞き慣れない台風名自体が、アメリカ式につけられたものです。
キャサリン台風GHQ1.jpg
上写真3点/撮影GHQ copyrights/National Archives and Records Administration


 しかし、こんな未曾有の水害にあっても、立石の人々は元気、というか不謹慎でした♪♪♪。以下、『無邪気な季節』より。
「『金ちゃん』の家ではひさしから屋根へと彼も上ってきている。金ちゃんたちは連日麻雀をやっている。」
 こんな立石が、私は好きです♪♪♪
『無邪気な季節』の「私」は、「金ちゃん」に言います。
「どう考えても被災者が連日連夜麻雀をやっているのは不健康な感じだぜ。」
 が、そう言った後で、「毎日松の木に蝉のようにとまって、月夜に用を足す姿が健康な被災者の姿かどうか」と、自嘲気味に自問することも忘れません。立石の人間は、なかなかに都会人なのです。

 

 その後、ようやく水が引き出すと、「二日かかって道路が見えはじめ」(『無邪気な季節』)ました。が、「路地にも横丁にも大通りにも、水のあふれた道には人々の排泄物が浮かび漂って」いたし、それ以降何年もの間、「家の柱や壁にそのときの浸水位置を示す汚れた線がくっきりと残った」(『葛飾物語』)そうです。

 日本政府は、キャサリン台風を機に治水事業に本腰を入れました。それでも、昭和38年生まれの私の記憶には、どぶ川が流れる立石の風景と匂いが鮮明に残っています。そのどぶ川も、いつの頃からか暗渠に変わり、今、立石にどぶ川はありません。

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2013年07月03日

半村良の『葛飾物語』と『無邪気な季節』に見る、立石の「敗戦直後」

「半村良の『葛飾物語』と『無邪気な季節』に見る、立石の『戦争』」に続く「敗戦直後」編です。




「焼け残ったせいか、立石の町にはやけに人が多くなった。」(『葛飾物語』)

 敗戦後、立石は一種の活況を呈します。
「焼け残ったせいか、立石の町にはやけに人が多くなった。それも知らねえ顔ばかり。その人の流れも昔は小岩から向島へが、こんどは西から東へだ。住まいと食い物につれて人の動きも変わった。」(『葛飾物語』
 のんびりした農村地帯だった立石に、大規模に人口が増加したのが1923年(大正12年)の関東大震災後。戦争は立石に、2度目の「民族の大移動」をもたらしました。
 大移動したのは日本人だけではありません。産業戦士慰安所(軍需工場の徴用兵用の公的売春所)が、占領軍専用の「特殊慰安施設協会」(RAA=Recreation and Amusement Association)」になったため、進駐軍の兵士(主にアメリカ人)まで立石に押し掛けたのです。『無邪気な季節』には、このことが詳しく書かれていますが、詳細は「【現況報告】 写真で辿る立石北口、旧赤線地帯(小史付き)」を参照ください。
 そんな立石半村良は、「戦争は変化を加速させた。人は疲れ男は減り、町は闇市の賑わいと外国兵の姿ばかり」(『葛飾物語』)と表現しています。

  

 戦中は、東京にしては食糧が出回っていた立石にも、敗戦とともに食糧難が襲います。「配給もまばらだからゆうべは奥戸新橋の袂で身元不明の凍死か餓死かこれも不明の行き倒れが出た」(『無邪気な季節』)し、『葛飾物語』の人々もサツマイモを食べる日々です。


「闇市には……得体の知れぬ……匂いが立ちのぼっている。」(『無邪気な季節』)

 そして、駅前には、闇市が立つようになりました。現在の立石仲見世商店街の原型です。長くなりますが、『無邪気な季節』から引用しましょう。  
「闇市にはいつものように得体の知れぬなんともつかぬ匂いが立ちのぼっている。夜の中に電灯とカンテラとランプと、灯芯までが灯りをつらねている。駅の出入口のそばではもう盛んな火の手が上がっている。焚火の連中である。……復員服か、ボロをまとった連中だが、傍にいって火に手をかざしても、金は請求しない」
 闇市には、飲食店もありました。 
「出入口のかたわらに新しく参加した店がある。煮込みを売っている。」
 煮込みとは、「進駐軍のシチューの残飯」。
 なお、焚き火用の「大きな材木はたいがい電車の線路の両側の柵代わりに使っている古枕木を引き抜いて」きたとか。
 線路の柵を盗むあたり、いかにも戦後の混乱期ですね。

  

 
 混乱といえば、「土地の不法占拠もあった」と、幾人もの古老から聞きました。戦中、駅前の一帯では、空襲の危険をかんがみて建物が取り壊され、「強制疎開(建物疎開とも呼ばれる)」が実施されましたし、その後も、ある時期まで、主に食糧難の見地から疎開組が立石に戻ることは禁じられていました。そのため、主の不在中に勝手に土地を奪い居座る者たちが出たのです。
 また、敗戦国として連合国の占領下にあった日本ですから(〜1952年4月28日)、進駐軍には手も足も出せませんでした。それに、中国や朝鮮半島の国々も戦勝国になりましたから、彼らにも警察は弱腰の対応でした。
「闇商売でも第三国人(ママ)ならこわもてしている。……警察は相手が第三国人(ママ)だと出てこない。」(『無邪気な季節』)。

 一方、戦争というお得意を失った軍需工場や、そこで働いていた人々は、生き残りをかけてどんな仕事でもしました。「(バラックの)トタンに波をつける仕事」や、「鍋釜からはじまって、砲金製の喫煙パイプまで、それなりに工夫したもの」を「細々と」作ったし、「軍需工場だったところが考案した原始的な家電製品」、「ジェラルミンを使った電気パン焼き器」といった変わり種もありました(『葛飾物語』)。
 そういうわけで、終戦後の立石では、モダンな山の手方面よりいち早く、電気パン焼き器が普及するという珍現象が起きていたのです。

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半村良の『葛飾物語』と『無邪気な季節』に見る、立石の「戦争」

 私は、二世兵士 激戦の記録−−日系アメリカ人の第二次世界大戦』(新潮新書、777円)という本を刊行しています。ふとした契機から書いた戦争に関する一冊ですが、そうすると、あの戦争の時、立石はどうなっていたのか? そんな疑問が激しく湧いてきました。
 それで読んだのが、『葛飾物語』半村良著、1998年)と『無邪気な季節』(石尾光之祐著、1988年、私家版30部)の2冊です。

  

 半村良(1933〜2002)も石尾光之祐も、ともに立石出身。半村良は、1975年に『雨やどり』で直木賞を受賞。代表作の『戦国自衛隊』他、SF、時代小説、人情噺など、多岐の分野にわたる著作を残しました。石尾光之祐は、古本業界の人です。




「本家もなければ分家もない。いわば故郷喪失者たち」(『葛飾物語』)

『葛飾物語』の舞台は、半村良自身が生まれ育った本田原町(現在の東立石4丁目)。三軒長屋に住む人々の、戦中から平成にかけての人間模様を描いています。登場人物は、江戸友禅の職人、軍需工場の社長、疎開する子どもたち、向島のやくざ者、戦後のインフレに追いつかず土地を手放す大家など。
『葛飾物語』に通底するのは、東京の場末、当時の新開地、葛飾(立石)に対する以下のような著者の解釈です。
「葛飾にいる知り合いに、太郎という名のつく者はめったにいない。……本家もなければ分家もない。いわば故郷喪失者たちなのだ。……だからこそ、……助け合い励まし合い、また慰めあって頑張っている。」
 こういった気質は、現在の立石にも流れています。少々『男はつらいよ』的世界。実際、私が幼い頃には、寅さんみたいに、忘れた頃にひょいと立石に帰ってくるおかしな大人たちがいました。
『葛飾物語』があくまで小説、フィクションなのに対し、石尾光之祐の『無邪気な季節』は私小説、というよりむしろ日記に近い作品です。
『無邪気な季節』の「私」は、小学校4年生の時、「東京府下南葛飾群(翌七年に東京市葛飾区に改名)の本田村に引っ越し」ました。そして、「本田尋常高等小学校」(現・本田小学校)附近の「長屋」に住み、父親は、「工場経営と併せて新聞販売店」を営みます。
 長じて「私」は、「昭和十四年」、「予科に入学」。『無邪気な季節』は、この学生時代から、戦争末期の入隊、戦後の復員を経て、戦争直後の日々を綴っています。

東京では珍しく戦災から逃れた立石

 戦中立石の一大特徴は、東京では珍しく戦災から逃れたということです。
『葛飾物語』の江戸友禅職人は、昭和20年3月10日の東京大空襲をこう振り返ります。
「明るくなって駅へ行って見たら、四ツ木のほうから線路の上を、ぞろぞろ、ぞろぞろ歩いて来やがる。焼けだされて、煤で真っ黒けな顔をした、幽霊みたいな連中がよ。」
 都心部の人々は、隅田川や荒川を超えて立石に避難して来たのです。
 被災しなかった立石では軍需工場が多忙を極め、産業戦士慰安所(参考記事→「戦中、北口にあった『産業戦士慰安所』」)も作られました。
「軍需」といっても製品はさまざまで、
「立石、四ッ木町にゴム屋は多い。が、このゴム会社だけが衛生部品を作っている。民間用に『ハート美人』などの類似品、軍隊用に『突撃』を送り出している。」(『無邪気な季節』
 コンドームが、日本に伝えられたのは明治末期。その直後に、立石では生産を開始したといいます。以上の文章から、立石にはコンドームの歴史が第二次大戦中も脈々と続いていたことがわかります。
 それにしても、「突撃」とは絶妙の命名ですね。
参考記事→


 戦前とは較べようがないとはいえ、戦争中も立石に食糧はそれなりに出まわっていたようです。
 中川の向こうの奥戸地区では、「泥鰌(どじょう。ルビ/柳田)を売る家があって、葱も泥鰌も葛飾産」。「牛蒡と葱と泥鰌くらいは、まだどうにでも」なるので、昭和18年の時点で、『葛飾物語』の長屋では、近所の者が集まって「泥鰌鍋」を囲みます。
 同じ長屋では、終戦の日にも奮発してすき焼を食べました。ただし、牛ではなくて「兔のすき焼」。
「奥戸のほうに……防寒用の耳当てを作る小さな工場……供給が途絶えたときのためと称して、兔をかなり大量に飼育していたのだ。」
 それでも、やはり戦争中であることに変わりはありません。立石の「路地の塀や羽目板のあちこちに、戦意高揚のためのポスターが貼ってあった」し、そこには「鬼畜米英、一億国民総武装、進め一億火の玉だ、大和一致、神州不滅」などの標語が書かれていました。
 それに、爆弾は落ちなかったとはいえ、立石の人々だって、「防空壕に逃げ込んだ回数は、空襲警報が発令されるたびだから、もう疲労困憊して戦意高揚どころではなくなっていたの」です(『葛飾物語』)。

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2013年06月26日

立石も登場、小林亜星の「赤線エッセイ」集、『あざみ白書』

 過日、作曲家の小林亜星さんをインタビューしました。取材が終わると、
「これ、あげるよ」
 亜星さんが、一冊の本をぽんと差し出しました。
『あざみ白書』(サンケイ出版、1980年初版、現在絶版)。
「オレ、この本の校正、女房と一緒にやったんだよね。あきれた男(笑)」

あざみ白書.jpg


『あざみ白書』は、昭和30年頃の全国の赤線について書いた自伝小説的エッセイ集です。ご本人があとがきで、「資料は正確に、オチは荒唐無稽にと心がけた」と記している通り、時代考証としても大変貴重な書籍と感じました。資料提供者のひとりは吉行淳之介。

立石遊郭遠望.jpg 東京だけでも17カ所、全国的に無数にあった赤線に、若かった亜星さんは、まさに“精力的”に通ったようです。そう、ちゃんと立石にも来ています。
「夏子」と題された一編から引用してみましょう。時は昭和31年(1956年)。

「都電で、浅草から押上へ出る。さらに京成電車で四つ目、京成立石で下車。」

 そうか、あの頃、都会からは都電経由で立石に来る人がいたんですね。

「ここは亀戸から流れた赤線で、当時、業者五十三軒、女性百三十人を擁していた。入口には『立石カフェー街』と書かれた、ベニア板を貼り合わせた様な柱が立って居り、門構え、庭付きの、一見、山の手の新興アパート風か、ウエスタン酒場風の店が多かった。」
(上写真/その頃の立石北口駅前。提供/貝塚隆雄氏)

 これは、立石北口駅前西地区のことを指します。今だと、「立石駅通り商店街北口。唐揚げで知られる『鳥房』の前にある交番裏の一帯」。業者53軒とはかなり大規模です。




「石の門構えの“つかさ”という店に入る。」

スナックつかさ.JPG 驚いたことに、今でも「つかさ」という店、残っているんですよ。もちろん赤線ではなく、スナックですけれど。そして、この頃は、店を閉めていることが多いようですけれど。

 立石の赤線は、戦中にできた産業戦士慰安所(「軍需工場にかり集められた若い徴用工の性欲のためにと、軍部の命で、警視庁が……工場地帯に新設させた慰安所」『敗者の贈り物』ドウス昌代/講談社)に由来します。
 その後、戦後の連合国占領軍(主に米軍)のための「特殊慰安施設協会」RAA=Recreation and Amusement Association)を経て、売春防止法が施行される昭和33年まで赤線地帯となりました。
『あざみ白書』によれば、戦前は8カ所だった「廓」が、「戦後十七カ所にも増えたのは、この様な、徴用工のための軍需施設が原因だった」。

あざみ白書/画1.jpg 亜星さんと「つかさの夏子」のお話は、本書を読んでいただくとしてーー。私がいちばん好きなオチは、「サリー」の章。
 かつて熱海の遊郭でかかわった時、「死んだ夫が忘れられない」と語った娼婦に、数10年ぶりにひょっこり、とある街で再会した亜星さんが、
「パルピンのゆうさんの事、忘れない?」
 と小声で尋ねると、彼女はこう答えました。
「忘れるもんですか、今でも墓石に腰使いたいほどだわよ」


画/滝田ゆう(『あざみ白書』より)


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2012年12月13日

川本三郎『郊外の文学誌 葛飾界隈』より

 本棚を整理していたら、2000年の「新潮」誌が出てきました。そこには、『郊外の文学誌 第10回 葛飾界隈』という川本三郎氏の連載が載っていました。
 以下、備忘録的要約を書きます。




川本三郎/葛飾界隈/1/4.jpg*京成押上線は、大正元年(1912)11月に押上〜伊予田(現江戸川)が開通、大正3年には、国府台以東へと順次延長。大正15年には押上〜成田間が全線開通。
(なお、『かつしか街歩きアーカイブス』(葛飾区郷土と天文の博物館/2009年)によれば、「京成立石駅大正元年11月3日開業(1912)。開業当時の四ツ木〜立石間は道路併用軌道で、現在のバス通り(奥戸街道)を走っていた。立石駅は西円寺北側の踏切辺りにあったが、荒川放水路の開削にともない向島〜立石間の経路が変更になり、四ツ木駅同様大正12年現在地に移転した。」

*都営地下鉄線の押上〜浅草間が完成し、京成電鉄との相互乗り入れが開始されたのは高度成長さなかの昭和35年師走。これで葛飾区と都心が一本に結ばれた。地下鉄と郊外私鉄の相互乗り入れは初。地下鉄が隅田川を越えたのも、この時が最初。

小説『浮雲』(林芙美子著)では、戦時中、フランス領インドネシアにタイピストとして赴任した幸田ゆき子が、森林技官の富岡に「東京生まれだ」というと、
「東京? 嘘つけ。東京生まれには、幸田君のようなのはないよ。あれば、葛飾、四ツ木あたりかな……」
 と、からかわれる。

*成瀬巳喜雄監督の映画『浮雲』(主演・高峰秀子、森雅之/昭和30年)にも、同様の台詞あり(私は大学の時、この映画を見て傷つきました。大好きな森雅之立石をバカにされてしまい……)。

永井荷風の短編『老人』(昭和25年)は、立石に隠遁した老人が主人公。この頃、荷風は千葉県市川市、京成八幡駅近くに居住していた。

*永井荷風『断腸亭日乗』によれば、荷風が立石を訪ねた日付は、昭和17年6月4日、23年6月24日他。

芝木好子が薄幸の女性画家を描いた小説に『葛飾の女』(昭和40年)。

中川に足繁く通った作家に幸田露伴

半村良『葛飾物語』(96年)は、戦前の本田原町(現東立石4丁目)の三軒長屋が舞台の小説。

*青木正美の回想記『下町の古本屋』(94年)には、生徒数が多かったため、小学校は午前組と午後組に分かれる「二部授業」とある。

*立石と四ツ木の中間にある「渋江公園」には、「セルロイド工業発祥之地」の碑がある。それによれば、大正3年に千種稔が、本田村川端にセルロイド工場を作ったのが「立石、四ツ木=玩具の街」の始まり。

*昭和35 年の大ヒット商品、「ダッコちゃん」は、青戸の玩具メーカー「タカラ」が製作。

*同年の日活青春映画『ガラスの少女』(主演・吉永小百合)では、吉永の恋人役、浜田光夫は四ツ木の玩具工場で働く若者。

*昭和12年葛飾生まれのつげ義春は、戦後、少年期を立石で過ごした。本田小学校卒業。仕事は、闇市の玩具売り、中華そば屋の出前持ち、メッキ工場工員など。

*立石発展の契機は2度。関東大震災、東京大空襲。2度とも大きな被害を受けなかったので、本所、深川を焼け出された人々が移住した。

 
最後に、川本氏の考察で「同感」と思った2点をーー。

「『男はつらいよ』の世界の原型は立石あたりの路地にあるのかもしれない。」

「戦時中空襲の被害のもっとも大きかった旧下町の人々が移り住んだ例も多く、気質的にも下町らしさを形成していったのであろう。」


柳田由紀子の本/紫

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2012年12月09日

「雨中奥戸橋の眺望画のごとし」(『断腸亭日乗』永井荷風)

 いま少し『あのエッセイ この随筆』(川本三郎著、実業之日本社)から引用を続けましょう。
 永井荷風は、昭和17年6月4日に立石を訪れ、奥戸橋に寄りました。そして、奥戸橋の様子を、
「雨中奥戸橋の眺望画のごとし。橋際に地蔵と道しるべあり」
 と、『断腸亭日乗』に記しました。
 この橋の正式名称は、本奥戸橋ですが、地元では奥戸橋と呼んでいます。

奥戸橋/曇1.jpg

 奥戸橋はどこにあるかというとーー京成立石駅から仲見世商店街を通り抜けると、奥戸街道というバス通りにつきあたります。その奥戸街道を5分ほど東に歩いたところに架かっているのが奥戸橋です。橋の下を流れているのが中川で、橋の向こうは立石ではなく、奥戸という地名です。




 川本三郎氏も、立石を訪れた時は奥戸橋まで足を伸ばすといいます。
「橋の畔には、江戸時代に作られたという地蔵尊と馬頭観音、道しるべが残っている。その脇に十年ほど前に作られた案内碑が立っている。荷風の『断腸亭日乗』が引用されている」『あのエッセイ この随筆』
「雨中奥戸橋の眺望画のごとし〜」は、この案内碑に刻まれていると、『あのエッセイ この随筆』には書かれています。

 しかし、この案内碑が見つからないのです。どなたか、ご存じの方がいたら教えてください。



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2012年12月04日

『綴方教室』の舞台は、葛飾区立本田小学校(立石一丁目)

 本田小学校と書いて、ほんでん小学校と読みます。創立は明治7年(当時は、第6中学区第4番青戸分校)、140年もの歴史のある小学校で、私の母校です。昭和初期のベストセラー、『綴方教室』は、この本田小学校(立石一丁目)が舞台です。

本田小学校校舎.jpg


『綴方教室』が中央公論社から発行されたのは、昭和12年のこと。この本には、当時、本田小学校に通っていた豊田正子さんの綴方(作文)と、担任の先生(大木顕一郎)の指導記録が書かれています。豊田正子さんは、大正11年東京本所生まれ。10歳の時に、家族とともに墨田区から、葛飾区本田第一小学校(現・本田小学校)に転校しました。




綴方教室/イラスト.jpg「豊田正子の綴方作品は、東京下町に住む貧しいブリキ職人一家とその周辺の生活実態を、透明で鋭い観察力と生き生きした日常語で活写したものであった。そこには、職人一家に特有の明るさ・たくましさとからみ合いつつも、昭和恐慌の余波に翻弄され、貧困の重圧下にあえぐ庶民の深刻な生活態度が、無邪気に率直に、そしてなによりも真剣に投影されていたのである。」

 解説にもある通り、『綴方教室』には立石(正子さんの家は四ツ木寄り)に生きる貧しい庶民の日常が描かれています。その執拗なまでの貧困に、正直言って私はかなり滅入りました。特に、ブリキ職人の「とうちゃん」が、本業だけでは食べられなくなって、職業紹介所に登録に行ったり、下請けの賃金を取り損なったり、自転車を盗まれてしまうくだりなどは、読み進むのがつらくなったりもしました。
綴方教室/著者写真.jpg
 逆にいえば、正子さんは、それほどまでにありのままの暮らしを飾ることなく書き切っています。そして、まさにその生活こそが、戦前の立石の多くの人々の姿だったのでしょう。
『綴方教室』には、「お湯屋の番頭さん」「犬ころしのおじさん」「馬方」といった人々、「井戸そうじ」や「芸者に売られる少女」の話など、昭和初期の立石を知るための貴重な話がたくさん書かれています。

 なお、豊田正子さんは、本田小学校卒業後、日本製紐、四ツ木工場に勤務。『続綴方教室』には、その時期の日々が綴られています。
 また、『綴方教室』は昭和13年に東宝から映画化。山本嘉次郎監督のもと、高峰秀子が正子さんを演じました(父親役・徳川夢声、母親役・清川虹子)。

挿絵/北山径子、写真/16歳、『続綴方教室』執筆の頃の豊田正子さん。
四ツ木の工場にて。以上、ともに木鶏社版より引用。


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「ひとりモツ焼き」常連女子による『悶々ホルモン』

 立石にまつわる本って、良書だけど地味か、過去のベストセラーか、このどちらかってのが相場でした。しかし、やっと登場しました。堂々の売れ筋本、『悶々ホルモン』(佐藤和歌子著、新潮社文庫、500円)。
 著者の佐藤和歌子さん(29歳)は、「焼き肉はひとりがいちばん」と説きます。私もたぶんに同感です。だって、焼き肉こそ、自分好みの焼き加減で食べたいじゃない。



 ところで、私は元来「おひとりさま」で、ラーメン屋には小学校低学年から、寿司屋と焼き肉屋、モツ焼き屋には、22歳で就職すると同時にひとりで行き始めました。しかし、そんな私でも敷居が高かったのが「ひとりホルモン」。なぜって、他のお客さんたち(主にオヤジ)が、どことなく気を遣っているのがわかったからです。
 しかし、数年前の帰国時にハッキリと変化を感じました。モツ焼き屋にひとりで入っても、誰も私に気を止める風もなし。私がオヤジ化しただけなのか? いやいや、これは『悶々ホルモン』効果でしょう。この本のおかげで、ひとりモツ焼き&焼き肉する女が増えた、ないし、認知されたのではないか、と拝察します。

エンジン誌/ホルモン 2.jpg 私事ながら、私の半生はオヤジ・イメージとの闘いでした。自らのオヤジ的側面を、他人に見せまいと努めて生きてきた。だけど、本書を読んで認識が変わりました。今の20代ホルモンヌに較べれば、私など、オヤジの末席に名を連ねることさえ憚られます。知らないうちに、あの娘もこの娘も、私(昭和38年生まれ)を遥かに越えた真性オヤジになっていたのね。これで、人生がだいぶ楽になったよ。




 さて、『悶々ホルモン』が紹介する立石の飲食店は2軒。「宇ち多”」「江戸っ子」です。本書には、他に関西、福岡、神奈川方面におけるホルモンの名店が紹介されています。それだけでも極めて貴重なガイドブックなのですが、何より著者のホルモン好きが素直に伝わる文章で、読んでいるこちらも幸せになります。

エンジン誌/ホルモン 3.jpg ホルモンなら立石「ミツワ」浅草「金楽」、この2軒さえあればハッピーな私ですが、しかし『悶々ホルモン』を読んで、一軒だけどうしても行きたい店が出現しましたーー浅草「喜美松(きみまつ)」
 以下に一部引用。
「一品一品のレベルが異常に高い。豚のキンタマ食わせるくせに、品がよくて、敷居が低い。油断させといて、いつの間にかヤバイ世界に連れていく感じ」
 うーん、読んでいるだけで悶々する。なれど、ロサンゼルスから浅草はあまりに遠し。
 あぁ、『悶々ホルモン』、出国前に日本で読んでおくべきだった……。



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仲見世商店街が表紙に描かれた単行本

 ある時、友人から一冊の本が贈られてきました。その表紙を見て「ほーっ!」、私は思わず声を上げて喜びました。そこには、大好きな立石仲見世商店街が描かれていたのです。




 書名は、『あのエッセイ この随筆』。著者は、文芸、映画、都市他の評論で知られる川本三郎です。装画の作者は森英二郎(この人の作品は、以前「小説新潮」の表紙を毎月飾っていました)。
 森英二郎が描いた仲見世商店街は、仲見世の様子をしっかりとあたたかく捉えていて、絶品だと思います。かなりやぼったい水色のアーケード天井が、いかにも仲見世で、さらに、その水色と、地面のタイルを彩る緑色、えんじ色、黄肌色の組み合わせが、ますます”やぼ”です。こんな配色、いったいどこの誰が考えたのでしょう? 

仲見世/地面.jpg

 仲見世が、コンクリートだった床を現在の形に変えたのは昭和40年代後半だったと思います。「近代化」とでもいったものを狙ったのでしょうが、逆効果でした(笑)。でも、このイケてなさこそが仲見世の良さ、強みです。こんな色彩の商店街、東京のどこにもないよ!




 装画の中心には、「宇ち多゛」(うちだ)というモツ焼き屋が描かれています。ここは、「夕方には品切れ」になる有名店です。なぜ「夕方に品切れ」かというと、昼間から店を開けているから。で、開店と同時にほぼ満席、外は行列状態になります。私が、幼い頃からそんな感じでした。
 子どもの頃は、「昼間から飲む方も売る方もどうかしてる」と憤っていたのですが、おかげさまで今では私も、陽の明るいうちから行列に参加する立派な大人になりました。




 著者の川本三郎は、「立石が好きでよく町歩きに出かける」といいます。その理由として、
「まだあちこちに昭和三十年代の町並みが残っているから。マーケットのような商店街、木造家屋が並ぶ路地、電車の踏切。町を歩いていると子どもの頃に戻ったような気がしてくる」
 と、綴っています。
 そして、最後に、『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』で、永井荷風と立石の繋がりを記して、「東京の小さな町 立石」と題した短い随筆を書き終えています。




posted by 柳田由紀子 at 03:07| Comment(2) | TrackBack(2) | 文芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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